銀行の封筒収集  ~ライフワーク~

-中部

-中部

㈱第四北越フィナンシャルグループ

 2018年10月1日、第四銀行と北越銀行の経営統合により設立した。
本店は、旧北越銀行の長岡市大手通2-2-14。本社機能所在地は、旧第四銀行の新潟市中央区東堀前通七番町1071-1である。
 コーポレートマークは、「新潟県」の地形をモチーフとして、大地を豊穣な稲穂の実りの「黄金色(こがねいろ)」、その大地を潤す河川と 世界へ広がる雄大な日本海をコーポレートカラーである「紺碧色(こんぺきいろ)」で表現している。マークの中の楕円形は、新潟の島々を稲穂にイメージしデザイン化、上昇する2本のラインにより、第四銀行及び北越銀行の両行が1つの大きなうねりとなり、未来に向けて変化に果敢に挑戦し、地域へ貢献し続けていくことを表現している。

第四北越銀行

 2021年1月1日、㈱第四北越フィナンシャルグループの子会社である第四銀行を存続会社として、同じく子会社である北越銀行と合併して改称し、第四北越銀行になった。
140-dh-100-30
140-dh-100-20
140-dh-100-10a
140-dh-5-10

第四銀行(消滅)

第四銀行本店:Fouton

 1873年9月14日、市島徳次郎らが発起人となり国立第四銀行創立。1874年3月1日、開業。ナンバー銀行の商号のまま現存する法人としては最古の銀行である。1896年12月19日、営業満期国立銀行処分法により㈱新潟銀行に改組。1912年12月15日、中条共立銀行を合併。以後、新潟県下の銀行を合併していった。
 1917年2月11日、第四銀行に改称。1943年3月29日、新潟銀行、能生銀行を合併、百三十九銀行、柏崎銀行、安塚銀行の営業を譲受した。1945年8月1日、29番目の合併として新潟信託株式会社を合併し、信託業務を兼営した。1963年9月26日、信託業務を廃止。1990年、ニューヨーク支店開設。1992年9月、新本店が竣工。1993年、香港支店開設。2006年3月、新潟証券と資本提携し傘下の証券会社とした。
 2018年10月1日、第四銀行と北越銀行の経営統合により㈱第四北越フィナンシャルグループを設立。2021年1月1日、存続会社として、同じグループ子会社である北越銀行を合併して改称し、第四北越銀行になった。
↓収集困難度に★★を追加
140-ds-150
140-ds-145
140-ds-140
140-ds-135
140-ds-131
140-ds-126
140-ds-121
140-ds-116
140-ds-111
140-ds-106
140-ds-102
140-ds-101
140-ds-61
140-ds-56
140-ds-51
140-ds-11
140-ds-7
140-ds-5
140-ds-3
140-ds-1-110
140-ds-1-100

北越銀行(消滅)

北越銀行本店:Fouton
六十九銀行本店:PD

 1878年12月20日、長岡藩大参事であった三島億二郎、商人であった岸宇吉らによって長岡市において第六十九国立銀行として創業。1898年1月1日、国立銀行営業満期前特別処分法により株式会社六十九銀行に改組・改称。1923年12月1日、越見銀行を合併。1927年4月1日、脇野町銀行を合併。同年10月1日、六日町銀行を合併。1929年4月1日、寺泊銀行及び長岡商業銀行を合併。1931年12月1日、関原銀行を買収。1932年1月26日、今井銀行を買収。1933年12月9日、小出銀行を合併。1934年4月1日、神谷銀行及び十日町銀行を合併。1934年11月1日、栃尾銀行を合併。
 1896年11月10日、株式会社長岡銀行が創業。1922年1月1日、東京栄銀行及び見附銀行を合併。
 1942年12月7日、六十九銀行と長岡銀行は合併し、株式会社長岡六十九銀行を新たに設立。1943年12月31日、長岡貯蓄銀行を合併。1945年11月1日、加茂信用組合を合併。
 1948年10月1日、北越銀行に改称。1965年、本店を長岡市大手通に新築移転。1999年1月11日、長岡信用組合の事業を譲受した。
 行章は北越銀行の「北」の文字を雪の結晶にデザイン化したもので、外に向かう放射線状の線は明日への限りない発展を表した。
 2018年10月1日、第四銀行と北越銀行の経営統合により㈱第四北越フィナンシャルグループを設立。2021年1月1日、同じグループ子会社である第四銀行を存続会社として合併して改称し、第四北越銀行になった。
↓収集困難度に★★を追加
141-he-220
141-he-210
141-he-200
141-he-175
141-he-170b
141-he-165
141-he-163
141-he-160
141-he-155
141-he-150a
141-he-140
141-he-100
141-he-90
141-he-85
141-he-80
141-he-75
141-he-70
141-he-67
141-he-65
141-he-60
141-he-55
141-he-50
141-he-30
141-he-25
141-he-20
141-he-15
141-he-10
141-he-7
141-he-5
141-he-1-10
141-he-0-1
141-he-0

山梨中央銀行

山梨中央銀行本店:Author:さかおり

 1873年、山梨県県令(県知事)に着任した藤村紫朗は、殖産興業や教育制度の確立などの諸施策を推し進めた。1874年6月、藤村県令の意を受けて、県庁定詰区長の栗原信近は、出資者を求めて県下を奔走し、銀行類似会社である興益社を開業した。

 1875年、興益社は、第一国立銀行とコルレス契約(国内の銀行同士が結ぶ為替業務の相互代行契約)を結んで為替業務を開始し、翌1876年には山梨県為替方(県公金の取扱機関)となった。同年、政府は駅逓貯金の法を設けて、現在の郵便貯金を開始したが、民間では全く扱いはなかった。栗原社長は、少額でも集まれば産業資金になり得ることに着目し、1876年に日本初の貯蓄預金である興産金の取扱いを始めた。

国立第十銀行本店:PD

 1876年の国立銀行条例の改正は、資本金や紙幣発行の条件を大幅に緩和した。1877年4月15日、興益社を母体として、日本で9番目の国立銀行(九が苦に通じるため、第九国立銀行は欠番)として第十国立銀行が誕生した。本店は、山梨県為替方であった島田組から譲り受けた甲府支店社屋(甲府柳町30番地)に構えた。国立銀行は、資本金の80%の紙幣を発行できるという特殊業務があり、最終的に20万円の紙幣を発行した。また、興益社時代に取扱いが開始された貯蓄預金や公金業務は、ますます盛んになった。1881年に起こった松方デフレは、経済を極度に疲弊させ、深刻な不況をもたらしたが、堅実経営でこれを乗り切った。1889年11月には、本店を新築した。その後、1890年に起こった資本主義恐慌にも動揺することなく、順調な進展を示し、預金銀行としての基礎を確立した。

第十銀行本店:PD

 1897年1月1日、国立銀行満期前特別処分法に基づき普通銀行である第十銀行に改組した。1924年3月1日、業務拡大等から社屋が手狭となり、新本店が落成した。第十銀行時代の日本は、幾度かの恐慌、戦乱、震災などが相次いで起こり揺れ動いた。特に、大正末期から昭和初期にかけては不況の日々が続き、金融界はかつてない激動の時代を経験し、多くの銀行が消滅していった。第十銀行は、堅実経営で困難を乗り越えていき、いくつかの銀行を買収合併した。1927年3月20日、谷村商業銀行を買収。1928年4月1日、若尾銀行を昭和銀行と分割買収。1935年8月3日、大森銀行を買収。1937年5月31日、上野原銀行を買収。1941年4月1日、甲州銀行を買収。

有信銀行本店:PD
山梨貯蓄銀行本店:PD














 1941年12月1日、一県一行という国の要請によって、有信銀行と合併し、山梨中央銀行となった。1943年12月1日、山梨貯蓄銀行を合併。1945年7月6日、甲府空襲により本店が焼失。1969年、甲府市丸の内1丁目に本店を竣工した。
142-yc-100-145
142-yc-140
142-yc-135
142-yc-130
142-yc-125
142-yc-120
142-yc-117
142-yc-115
142-yc-110
142-yc-105
142-yc-101
142-yc-96
142-yc-90
142-yc-85
142-yc-80
142-yc-75
142-yc-70
142-yc-65
142-yc-60
142-yc-55
142-yc-50
142-yc-10-50
142-yc-10-45
142-yc-40
142-yc-38
142-yc-35
142-yc-30
142-yc-25
142-yc-20
142-yc-15
142-yc-10
142-yc-6
142-yc-5
142-yc-4
142-yc-3
142-yc-2-5000
142-yc-2-2500
142-yc-2-1000
142-yc-2-500
142-yc-2-100
142-yc-2-10
142-yc-2a
142-yc-0a

八十二銀行

八十二銀行本店:Fouton

 1877年10月10日、長野県の佐久地方の豪商であった黒沢鷹次郎らを中心に長野県小県郡上田町(後の上田市)で彰真社を基にして第十九国立銀行を設立。同年11月8日開業。1878年10月28日、第六十三国立銀行設立。同年12月1日開業。これらの国立銀行は、長野県内の金融に深く携わっていた小野組の破綻以降、混乱していた県内経済の回復と民生の安定化のため設立された。両行とも繭や生糸を担保に製糸資金を貸し付ける製糸金融や、荷主が生糸を横浜の問屋へ出荷する際に組んだ荷為替を割引く荷為替取引に力を入れ、明治・大正期における信州の製糸業、ひいては日本の輸出産業を支え発展させる原動力となった。
 1897年3月1日、国立銀行営業満期前特別処分法により私立銀行として営業継続、第十九銀行と改称。1900年1月4日、信濃貯金銀行を合併。1920年6月21日、信州銀行を合併。1922年6月1日、南佐久銀行を買収。1928年5月12日、東山銀行を買収。1929年4月15日、中野銀行を買収した。
 第六十三国立銀行(松代(長野市)に本店)が、松代大火等で経営危機に陥り、稲荷山(千曲市)に本店を置いていた稲荷山銀行の支援を得て、1893年12月1日に合併し、本店を稲荷山町に移転。1897年7月1日、第六十三国立銀行が、国立銀行営業満期前特別処分法により私立銀行として営業継続、六十三銀行と改称。1901年4月1日、塩川銀行を買収。1905年6月1日、高井銀行を合併。1909年5月11日、信濃商業銀行を買収。1914年5月1日、長野商業銀行を合併。1920年3月21日、南安銀行を合併。同年6月21日、上越銀行を合併。同年9月1日、成資銀行を合併。1923年10月1日、高島銀行を買収。同年11月、水内銀行を合併。1924年8月1日、小谷銀行を買収。1925年9月、松代保全合資会社を買収。1929年3月1日、新村銀行を合併。同年9月、依田銀行を合併した。

六十三銀行本店:PD
第十九銀行本店:PD

 第一次大戦後の慢性的な不況による生糸相場の暴落と、関東大震災により衰弱した経済に追打ちをかけたのが、1929年の世界恐慌であった。1931年、長野県一の信濃銀行の倒産などにより、長野県は全国一の不況県と言われるまでになった。
 1931年8月1日、その影響を受け六十三銀行と第十九銀行(本店上田市)が合併し、数字の合計値を行名とした八十二銀行が誕生した。1943年3月1日、上伊那銀行、佐久銀行の営業譲受。1943年3月29日、信州銀行の営業譲受。同年9月25日、長野貯蓄銀行の営業譲受。同年11月27日、上田殖産銀行の営業譲受。同年12月27日、飯田銀行を合併。1969年9月、本店を中御所字岡田に竣工。2001年5月14日、新潟中央銀行の営業一部譲受。2002年8月5日、上田商工信用組合の事業の一部を譲受した。
143-hn-100-210
143-hn-100-200
143-hn-100-190
143-hn-100-185
143-hn-180
143-hn-178
143-hn-175
143-hn-170
143-hn-165a
143-hn-160
143-hn-155
143-hn-150
143-hn-148
143-hn-145
143-hn-140
143-hn-135
143-hn-130
143-hn-125
143-hn-120
143-hn-115
143-hn-110
143-hn-105
143-hn-100
143-hn-97
143-hn-95
143-hn-90
143-hn-85
143-hn-80
143-hn-75
143-hn-70
143-hn-65
143-hn-60
143-hn-10-60
143-hn-10-50
143-hn-40
143-hn-30
143-hn-25
143-hn-20
143-hn-15
143-hn-10
143-hn-7
143-hn-5
143-hn-0

富山銀行

富山銀行本店:Fouton

 1954年1月16日、富山産業銀行設立。同年2月1日、本店を高岡市源平町85の旧高岡職安の建屋を賃借して開業。1954年8月2日、井波信用金庫を吸収合併。1964年11月4日、高岡市守山町22の旧北陸銀行高岡支店の建屋を取得し増改築して移転した。
 1967年8月1日、富山銀行に行名を改称した。行名の富山銀行には、いろいろといきさつがある。戦時の1941年から43年にかけて地方銀行の統合が進められた。富山県では1943年7月に十二銀行、高岡銀行、中越銀行及び旧富山銀行が合併し、北陸銀行が誕生したが、旧富山銀行だけが1929年の恐慌の傷が残ったため合併比率が3/4となり、あまり縁起のよい名称とは言えなかった。1951年に朝鮮動乱が終わり、反動で不景気となり、富山の中小企業を援助するための銀行の設立が求められた。そこで、新銀行名として、富山銀行という名称が躊躇され、大蔵省の勧める富山興業銀行で設立準備を始めたが、日本興業銀行との錯誤が多く、富山産業銀行として設立された。しかしながら、一般にはなじまず、富山銀行に改称することとなった。
 2012年10月9日、金沢信用金庫から旧福光信用金庫の事業を継承した3店舗を譲受した。
145-ty-100-130
145-ty-120
145-ty-115
145-ty-110
145-ty-105
145-ty-103
145-ty-100
145-ty-30
145-ty-25
145-ty-20
145-ty-15
145-ty-10
145-ty-5-20
145-ty-5-10
145-ty-3-30
145-ty-3-20
145-ty-3-10
145-ty-1

北國銀行

広岡2丁目の北國銀行本店:Fouton

 1893年7月3日、合資会社米谷銀行が石川に設立。1919年12月25日、株式会社に改組。1925年2月25日、七尾銀行を合併。1926年2月26日、加能合同銀行と改称した。
 1892年2月25日、第一国立銀行金沢支店の業務を承継して加州銀行が石川に設立。1906年6月25日、加賀実業銀行が石川に設立。1917年1月1日、加州銀行と加賀実業銀行との合併により新しい加州銀行が石川に新立。1917年1月、津幡銀行を買収。1926年3月2日、美川銀行を買収。同年10月31日、鹿島銀行を買収した。
 1900年7月25日、穴水銀行が石川に設立。1931年11月4日、中居銀行を合併した。1896年5月13日、宇出津銀行が石川に設立。1900年5月4日、株式会社に改組した。1882年9月27日、第二拡産社が石川に設立。1893年7月、田鶴浜銀行に改称した。1895年12月12日、集成貯蓄銀行が東京に設立。1906年11月10日、埼玉へ移転し秩父貯蓄銀行と改称。
1908年1月7日、広島へ移転し八幡貯蓄銀行と改称。1917年1月31日、石川へ移転し七尾商工銀行と改称した1900年2月19日、能登絹糸銀行が石川に設立。同年8月19日、加能銀行と改称。1919年8月12日、能州銀行と改称した。1896年8月4日、能登銀行が石川に設立。1934年5月1日、熊木銀行と合併し新しく能登銀行を新立。1936年12月28日、鳳至銀行を買収した。1883年1月、厚生社が石川に設立。1894年4月26日、厚生銀行が改称設立され継承。1918年8月5日、能登部銀行に改称。1929年2月28日、要用銀行と合併し新しく能登部銀行を新立した。
 1938年9月7日、穴水銀行、宇出津銀行、田鶴浜銀行、七尾商工銀行、能州銀行、能登銀行、能登部銀行の7行合併により、能和銀行が石川に新立。1941年11月25日、余喜銀行を合併した。
 1943年12月18日、加能合同銀行、加州銀行、能和銀行の3行が合併して石川県に北國銀行を設立。同年12月20日開業。1944年2月29日、石川貯蓄銀行を買収。1958年3月、現本店完成。2002年5月13日、加賀信用組合の事業を譲受。同年7月22日、石川たばこ信用組合の事業を譲受。2003年3月24日、石川銀行が日本承継銀行へ営業譲渡、同日、日本承継銀行から営業の一部を譲受した。

下堤町1丁目にあった北國銀行旧本店:Hiririnmasa

 2016年11月25日、本店を金沢市下堤町1丁目から広岡2丁目に新築移転した。
146-hk-140
146-hk-135
146-hk-130
146-hk-125
146-hk-120
146-hk-115
146-hk-110
146-hk-105
146-hk-100
146-hk-20
146-hk-15
146-hk-10
146-hk-5-10
146-hk-5
146-hk-1-60
146-hk-1-55
146-hk-1-50
146-hk-1-20
146-hk-1-15
146-hk-1-10
146-hk-0-20
146-hk-0-10
146-hk-0

福井銀行

福井銀行本店:Fouton

 1899年12月19日、福井銀行を設立。1900年1月7日、福井市尾上下町46番地にて営業を開始した。
 1910年11月17日、大手銀行を買収。1912年6月25日、越前商業銀行を合併。1914年8月17日、三国商業銀行を買収。1919年6月21日、若狭商業銀行を合併。1924年4月15日、高浜銀行を合併。同年8月31日、大七銀行を合併。1926年4月20日、石川銀行を合併。1928年5月1日、嶺南銀行を合併。1930年12月7日、森田銀行を合併。1932年2月8日、洪盛銀行を買収。1936年9月25日、福井市順化1丁目に本店新築竣工。1944年12月1日、福井信託株式会社を合併。1945年11月10日、森田貯蓄銀行を合併。同年12月、三和銀行から旧大和田銀行の店舗のほとんどを譲受。1966年9月26日、信託勘定を閉鎖し、東洋信託銀行に信託財産を再委託。1996年5月17日、新キャラクター愛称を「ナチュラ」に決定。1996年8月19日、福井県第一信用組合事業譲受した。
 2012年4月1日、新コーポレートブランドマークとスローガンを策定。FUKUIの「F」を輪郭・余白部分で結合し、寄り添う2つの連なりは「お客さま」と福井銀行がともに飛躍する「翼」をイメージさせ、未来へのチャレンジを表現。立体的には、右上に続く「明日への希望」を表している。スローガンは、「いつも、いつでも、いつまでも」である。
 2021年10月、福邦銀行を子会社化する予定となっている。
147-fi-175a
147-fi-170
147-fi-165
147-fi-160
147-fi-155
147-fi-150
147-fi-145
147-fi-140
147-fi-135
147-fi-130
147-fi-125
147-fi-123
147-fi-120
147-fi-115
147-fi-110
147-fi-105
147-fi-100
147-fi-10-70
147-fi-60
147-fi-55
147-fi-50a
147-fi-45
147-fi-40
147-fi-35
147-fi-30
147-fi-25
147-fi-20
147-fi-15
147-fi-10
147-fi-7
147-fi-5
147-fi-4
147-fi-3
147-fi-1-200
147-fi-1-130
147-fi-1-120
147-fi-1-110
147-fi-1-100
147-fi-0-10
147-fi-0

静岡銀行

静岡銀行本店:はすきぃ
静岡銀行本店:はすきぃ

 1877年12月、静岡第三十五国立銀行設立。1878年5月15日、開業。1882年7月1日、第百二十四国立銀行を合併。同年12月7日、第五十四国立銀行を合併。1889年1月1日、第二十八国立銀行を合併。

三十五銀行本店:PD

 1897年7月1日、国立銀行営業満期前特別処分法により私立銀行として営業継続、三十五銀行と改称。










1934年6月に新築した旧静岡銀行本店:PD

 1883年8月4日、旧静岡銀行が静岡に設立。1888年7月1日、野崎銀行を合併。1919年7月、駿府銀行を合併。1926年9月、興津銀行を合併。1929年3月、高松商業銀行を合併。1930年9月、長田銀行を買収。同年10月、静岡商工銀行を合併。同年12月、安部銀行を合併。1931年8月、金谷商栄銀行を買収。1934年6月、本店を新築。1935年10月13日、沼津銀行と合併し新しく静岡銀行を新立。
 1937年3月27日、三十五銀行、静岡銀行が合併し、静岡三十五銀行設立。1939年12月21日、中和銀行を買収。

遠州銀行本店:PD

 1920年3月20日、遠州銀行設立。同年6月20日、資産銀行、西遠銀行を合併。1925年10月、気賀銀行を買収。1926年2月、金指銀行を買収。同年3月20日、遠江銀行を買収。同年9月30日、遠州金融株式会社を合併。同年10月、共盛銀行を買収。1927年8月、竜禅寺銀行を買収。1930年4月、中泉銀行を合併。1937年5月、協和銀行を買収。1938年10月、横山銀行を買収。1939年12月、北遠銀行を浦川銀行とで分割買収。1941年4月1日、西遠銀行を買収。1942年4月、天宮銀行及び遠洋銀行を買収。
 1943年3月1日、静岡三十五銀行と遠州銀行が合併し、現静岡銀行設立。同年6月1日、伊豆銀行、榛原銀行、浜松銀行の3行を買収。同年12月1日、伊豆貯蓄銀行、静岡貯蓄銀行、浜松貯蓄銀行の3行を合併。1944年12月1日、浦川銀行を買収。1945年4月1日、浜松市信用組合を買収。 静岡銀行の前身は、すべて含めると128金融機関となる。
149-sz-180
149-sz-175
149-sz-170
149-sz-165
149-sz-160
149-sz-155
149-sz-150
149-sz-145
149-sz-140
149-sz-135
149-sz-130
149-sz-125
149-sz-120
149-sz-115
149-sz-110
149-sz-105
149-sz-100
149-sz-10-40
149-sz-35
149-sz-30
149-sz-25
149-sz-20
149-sz-15
149-sz-10
149-sz-8-110
149-sz-8-100
149-sz-8-90
149-sz-7
149-sz-5a
149-sz-4
149-sz-3
149-sz-2
149-sz-0

スルガ銀行

スルガ銀行本店:PD

 1887年、岡野喜太郎が静岡県駿東郡青野村、(後の静岡県沼津市青野)に貯蓄組合共同社を設立。1891年、資蓄会に改称。1895年10月19日、㈱根方銀行に改組開業。
 1896年12月28日、本店を沼津町六軒町、(後の沼津市)に移転し、駿東実業銀行に改称。1900年、沼津町本町字通横町、(後の沼津市通横町)に移転。
 1912年7月19日、駿河銀行に改称。1912年、吉浜銀行の営業を譲受。1915年、清水銀行を買収。1916年11月、大栄銀行を買収。1918年8月14日、日本実業銀行を合併。1921年、御殿場銀行を合併。   1923年8月25日、静岡実業銀行を合併。同年12月27日、伊東町銀行を買収。1926年7月15日、大磯銀行を合併。1927年3月1日、松田銀行を合併。同年4月4日、駿州銀行を買収。同年12月4日、駿南銀行を合併。1928年4月1日、富士銀行を合併。同年7月、駿豆肥料株式会社銀行部を、沼津銀行と分割買収。同年12月24日、岡部銀行を買収。1930年2月11日、加島銀行を買収。1943年12月1日、駿河貯蓄銀行を合併。1945年3月1日、沼津信用組合を買収。同年4月4日、清水市信用組合を買収。1954年、吉田信用金庫を合併。
 1990年4月2日、スルガ銀行に改称。1991年10月1日、熱海信用組合を合併した。
150-sg-305
150-sg-300
150-sg-240
150-sg-235
150-sg-230
150-sg-225
150-sg-223
150-sg-220
150-sg-215
150-sg-210
150-sg-205
150-sg-200
150-sg-10-150a
150-sg-10-147
150-sg-145
150-sg-140
150-sg-135
150-sg-125
150-sg-124
150-sg-122
150-sg-121
150-sg-120
150-sg-115
150-sg-110
150-sg-105
150-sg-100
150-sg-95
150-sg-93
150-sg-90
150-sg-85
150-sg-80
150-sg-75
150-sg-70
150-sg-65
150-sg-60
150-sg-55
150-sg-50
150-sg-30
150-sg-20
150-sg-15
150-sg-10
150-sg-1-10b-10
150-sg-0

清水銀行

清水銀行本店:Author:はすきぃ

 1894年1月23日、静岡に富士川銀行が開業。1896年1月31日、由比銀行が静岡に開業。1897年6月12日、江尻貯蓄銀行が静岡に開業。1921年9月、江尻銀行と改称。1898年5月15日、蒲原銀行が静岡に開業。1900年3月1日、(資)庚子銀行が静岡に開業。1900年5月5日、岩渕銀行が静岡に開業した。
 1928年7月1日、富士川銀行、由比銀行、江尻銀行、蒲原銀行、庚子銀行、岩渕銀行の6銀行が合併し、駿州銀行を設立。1932年4月1日、旧清水銀行を合併。1945年5月、清水支店を本店に変更。
 1948年5月1日、商号を清水銀行と改称。2003年3月3日、破綻した中部銀行の受け皿行となり、静岡中央銀行、東京スター銀行とともに、日本承継銀行より静岡県中部・西部の店舗を引き継いた。
 封筒デザインの船と天女は柳原良平画である。
151-sm-200
151-sm-120
151-sm-110
151-sm-100
151-sm-50-20
151-sm-50
151-sm-25
151-sm-20
151-sm-10
151-sm-6
151-sm-5
151-sm-4-50
151-sm-4
151-sm-3
151-sm-2-50
151-sm-2
151-sm-1-50
151-sm-1-30
151-sm-1
151-sm-0-1
151-sm-0

大垣共立銀行

大垣共立銀行本店:Author:Fouton

 1879年4月10日、第百二十九国立銀行が開業。旧大垣藩主の異母兄・戸田氏寛が頭取を務めていた。
 1896年3月9日、大垣共立銀行が設立。同年4月10日、第百二十九国立銀行の業務を継承し大垣共立銀行を開業。初代頭取は旧大垣藩藩主戸田氏ゆかりの士族で大垣藩家老の家柄である戸田鋭之助が就いた。株主に旧大垣藩士族と西濃各郡の地主が加わったことから、士族と平民が協力して発足したので、「共立」とした。
 1900年6月4日、大垣市の美濃実業銀行を合併した。
 1904年、大垣市の美濃商業銀行の臨時休業に端を発する西濃一帯の取り付け騒ぎが起こった。この時、安田財閥総帥の安田善次郎は、第三銀行(後の安田銀行)を通じて大垣共立銀行を支援した。これを契機に、1909年7月、安田保善社が大垣共立銀行の株式の一部を引き受け、その傘下に入った。
 1910年4月19日、大垣市の真利銀行を合併。1919年12月20日、瑞穂市の五六銀行を買収。1921年4月1日、養老郡の養老銀行を買収。1923年12月21日、安田保全社を通じて名古屋市の農産銀行を買収。1926年4月1日、大垣市の共営銀行を買収。1928年5月1日、海津市の七十六銀行を合併。同年12月25日、瑞穂市の本田銀行を買収。1943年11月1日、大垣市の大垣貯蓄銀行を合併した。
 太平洋戦争直前と1943年、金融当局より一県一行主義に基づき、十六銀行との統合を打診された。しかし、安田保善社系列以外との合併は拒否し抵抗した。安田銀行は大垣共立銀行の合併を検討したが、日銀より資金効率の観点から難色を示された。再三にわたる金融当局の勧奨により、1945年5月には、十六銀行との合併やむなしに傾き、同年7月に統合交渉を開始したが、直後に岐阜空襲・大垣空襲があり交渉は中断、そのまま終戦となり合併は消滅した。
 終戦後、GHQの財閥解体措置により、安田保善社が解散、同社より派遣されていた会長・専務が退陣した。このため、当時大垣共立銀行生え抜きであった第7代社長・土屋義雄が中心となり自主経営が開始されたが、これまでの安田保善社との関係から制限会社の指定を受けることになった。指定により店舗新設などの積極経営を著しく抑制され、戦後における発展が遅れた。1948年金融機関再建整備法によって、資本金の90%減資を行い、貸金・預金などの回収、資産再評価、所有不動産の売却などに努力し、旧勘定の整理を進めた。この結果1952年には第二次封鎖預金の払戻を行い、1954年に株主への減資分担金および利息を支払って、全国の銀行に先駆け調整勘定の閉鎖を完了した。1949年の制限会社指定解除と共に、再建の条件が整った。
 大垣共立銀行は、岐阜県内では規模及び業務面から岐阜市に本店を置く十六銀行の後塵を拝していた。このため積極的な県外進出と、マス・リテール戦略に基づく、サービス深度化政策をとった。
 1973年6月、17階建ての「十六」を超える本店を新築落成。1998年2月9日、岐阜市の東海信用組合の事業を譲受。2000年10月1日、郡上市の郡上信用組合を合併した。
 全国初のキャッシュコーナーの365日年中無休稼動を実施したり、年中無休の窓口営業を開設するなど、2005年ダイヤモンド社の調査では、顧客満足度で全国第1位の銀行に選ばれた。バス移動型銀行、ドライブスルー銀行や、銀行員指名サービスのあるコンビニプラザや女性行員によるOKB45などユニークな話題は多い。
 封筒のキャラクターはパディントンベアを使用している。ゴールド総合口座専用のゴールドATMには、専用のゴールド封筒が備え付けられていた。
152-ok-100-470
152-ok-460
152-ok-455
152-ok-450
152-ok-445
152-ok-440
152-ok-435a
152-ok-430
152-ok-420
152-ok-419
152-ok-415a
152-ok-412
152-ok-410a
152-ok-405
152-ok-400
152-ok-395
152-ok-390
152-ok-385
152-ok-380
152-ok-377
152-ok-375
152-ok-370
152-ok-365
152-ok-360
152-ok-356
152-ok-355
152-ok-350
152-ok-345
152-ok-340
152-ok-335
152-ok-330
152-ok-325
152-ok-320
152-ok-315
152-ok-310
152-ok-305
152-ok-300
152-ok-200
152-ok-130
152-ok-125
152-ok-120
152-ok-115
152-ok-110
152-ok-105
152-ok-100
152-ok-45
152-ok-40
152-ok-35
152-ok-30
152-ok-25
152-ok-20
152-ok-15
152-ok-10
152-ok-9-12
152-ok-9-10
152-ok-8
152-ok-7a
152-ok-5
152-ok-4a
152-ok-3
152-ok-2
152-ok-1-10
152-ok-1
152-ok-0

十六銀行

十六銀行本店:Author:Fouton

 岐阜県下では三井銀行岐阜出張所が金融の中心を担ってきたが、民間への融資には慎重であった。このため、岐阜町界隈の商工業者が中心となり、澁澤榮一率いる第一国立銀行の指導の下、1877年10月1日、ほとんどの資本金を平民の出資で第十六国立銀行が開業した。
 1896年12月1日、国立銀行営業満期前特別処分法により私立銀行として営業継続、㈱十六銀行と改称。1903年7月1日、旧岐阜銀行及び岐阜倉庫銀行を合併。1904年7月1日、濃厚銀行を合併。1911年10月11日、富秋銀行を合併。1916年6月21日、間銀行を合併。1928年4月4日、竹鼻銀行を合併。1930年9月1日、鏡島銀行の営業譲受した。

十六銀行本店ファサード:Author:Fouton

 1937年2月10日、美濃銀行(の営業譲受。同年3月9日、八百津銀行の営業の一部を譲受。1940年8月17日、美濃合同銀行の営業譲受。1941年2月12日、飛騨銀行の営業譲受。1942年5月2日恵那銀行の営業譲受。同年5月5日、赤坂銀行の営業譲受。太平洋戦争直前と1943年12月1日、飛州貯蓄銀行を合併。同年12月21日、岐阜貯蓄銀行を合併。1944年12月1日、岐阜信託㈱の営業を譲受した。
 1943年、金融当局より一県一行主義に基づき、大垣共立銀行との統合を打診された。しかし、大垣共立銀行は安田保善社系列以外との合併は拒否し抵抗した。安田銀行は大垣共立銀行の合併を検討したが、日銀より資金効率の観点から難色を示された。再三にわたる金融当局の勧奨により、1945年5月には、大垣共立銀行は十六銀行との合併やむなしに傾き、同年7月に統合交渉を開始したが、直後に岐阜空襲・大垣空襲があり交渉は中断、そのまま終戦となり合併は消滅した。
 1961年9月26日、信託勘定閉鎖。1972年7月1日、東濃信用組合の営業譲受。1977年4月、新本店竣工。1987年10月、岐阜中央信用組合の営業譲受。1997年5月、土岐信用組合の営業譲受。2012年9月18日、岐阜銀行を合併した。
 封筒のキャラクターとしては、1986年6月よりトムとジェリーを採用していたが、2007年の130周年では、「うぐいち、べんぞう、ふくまる」に代わり、さらに、2011年2~3月、J-Pointスタイル1周年キャンペーンとして「フエルーちょ、タマルーにゃ兄妹」となった。
153-jr-100-290
153-jr-285
153-jr-280
153-jr-275
153-jr-270
153-jr-265
153-jr-260
153-jr-255
153-jr-250
153-jr-245
153-jr-240
153-jr-235
153-jr-230
153-jr-225
153-jr-220
153-jr-215
153-jr-210
153-jr-205
153-jr-200
153-jr-10-200
153-jr-10-190
153-jr-10-180
153-jr-177
153-jr-175
153-jr-170
153-jr-165
153-jr-160
153-jr-156
153-jr-150
153-jr-145
153-jr-140
153-jr-135
153-jr-130
153-jr-125
153-jr-120
153-jr-115
153-jr-110
153-jr-105
153-jr-100
153-jr-20
153-jr-15
153-jr-10
153-jr-8
153-jr-7
153-jr-6
153-jr-4
153-jr-2
153-jr-1-150
153-jr-0

岐阜銀行(消滅)

岐阜銀行本店:Author:はすきぃ

 1924年5月1日、岐阜無尽㈱が岐阜に設立。1927年2月11日、幸無尽㈱が岐阜に設立。1940年4月、幸無尽㈱が濃飛無尽㈱を買収。1928年1月27日、養老無尽㈱が岐阜に設立。1931年5月14日、両福無尽㈱が岐阜に設立した。
 1942年5月1日、岐阜無尽㈱、幸無尽㈱、養老無尽㈱、両福無尽㈱の4社が合併し、岐阜合同無尽㈱となった。1948年5月、岐阜無尽㈱に商号変更。1951年10月20日、相互銀行に転換、岐阜相互銀行に商号変更した。
 1970年、十六銀行専務であった宇佐美鐵雄が社長に就任以来、十六銀行と親密関係にあったが、その露骨なまでの子会社扱いに反発し、バブル期には積極融資を展開した。しかしながら、金融激戦地である岐阜や尾張地域にあって、取引先の中小事業者の経営悪化を受け、積極経営は裏目となった。
 1989年2月1日、普通銀行に転換、岐阜銀行に商号変更した。
 1999年、東海銀行が資本引受けに名乗りを挙げ、傘下で再建を図ったが、信用不安は一向に解消せず、2002年4月のペイオフ解禁を前に、同じ中部地方に位置し、以前から経営不安が噂されていた石川銀行や中部銀行が相次いで破綻し、市場における不安感が高まった。さらに同年、経営や財務に大きな影響力を持つUFJ銀行が経営危機となった。資本及び人的結合のみならず資産にUFJホールディングス株式が多くあった同行は、信用力低下のあおりをもろに受けた。その後、旧UFJグループのもと、営業地域である中京経済圏の好況感の下、中小事業者への相談・支援型営業を核にして営業力回復に出直しを図ったが、2001年4月には早期健全化法により120億円の公的資金の注入を受け入れることになった。また、2008年3月期の決算では単体の純利益7億円と経営健全化計画で目標とする28億円を大幅に下回ったため、同年7月25日に金融庁から業務改善命令を受けた。前身の東海銀行時代から支援を受けてきた三菱東京UFJ銀行に支援の要請を行っていたとみられるが、自助努力を求める意向に望みを断たれ、2008年夏頃より十六銀行からの資本支援を検討し、同年秋に正式要請した。2009年1月、両行は業務資本提携契約を締結。十六銀行が25億円を優先株式の形で出資した。2010年12月22日、東京三菱UFJ銀行を含めた資本支援の合意のもと、十六銀行の完全子会社となり公的資金を完済した。2012年9月18日、十六銀行へ吸収合併された。
541-gf-190
541-gf-180
541-gf-170
541-gf-160
541-gf-150
541-gf-140
541-gf-130
541-gf-120
541-gf-110
541-gf-100
541-gf-40
541-gf-30
541-gf-20
541-gf-10
541-gf-0

powered by Quick Homepage Maker 4.27
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional