都市銀行 -みずほ銀行
都市銀行 -みずほ銀行
金融庁によれば、銀行免許を有する普通銀行のうち本庁直轄(地方財務局が管轄しない)の「みずほ」「三菱東京UFJ」「三井住友」「りそな」の4行を都市銀行と定義している。
都市銀行の定義は、1968年10月から始まった金融制定調査会にさかのぼる。この第一分科会において、都市銀行は「普通銀行のうち六大都市または、それに準ずる都市を本拠として全国的にまたは数地方にまたがる広域的営業基盤を持つ銀行」とされた。当時は、旧財閥系として三井、三菱、住友、富士(安田)、第一、大和(野村)が、地方銀行等で業容が拡大した三和、東海、神戸、埼玉、協和、太陽が、その他特殊系として日本勧業、北海道拓殖、東京があった。
このため、全国銀行協会では、埼玉りそな銀行を都市銀行として扱っているが、当ウェブサイトでは、金融庁による分類に従うこととする。
なお、新生銀行及びあおぞら銀行は、出自が長期信用銀行及び債券信用銀行であるため、金融庁直轄であるが、都市銀行ではない。
(北海道拓殖銀行は、第二地方銀行の北洋銀行の下部に展示しております。)
みずほ銀行
みずほフィナンシャルグループは、銀行・信託・証券を自前で保有する唯一の邦銀グループである。みずほ銀行は、グループの銀行業務を担当する。行名の「みずほ」は瑞穂、すなわち、みずみずしい稲の穂という意味であり、日本書紀に登場する実り豊かな国を意味する日本の美称である。
2000年9月29日、みずほホールディングスの設立により、第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行は、同社の完全子会社となった。2002年4月1日、会社分割及び合併により、第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行は、カスタマー・コンシューマ銀行業務を承継する「みずほ銀行」、コーポレート銀行業務を承継する「みずほコーポレート銀行」及び「みずほ証券」、「みずほ信託銀行」となった。本店は、旧第一勧業銀行本店ビルを使用した。旧第一勧業銀行が、全国各地にあった農工銀行の流れを組むことや、宝くじ業務を行っていたことにより、ゆうちょ銀行や商工中金を除き、銀行としては唯一全都道府県と政令指定都市に支店を有する。
2003年1月8日、千代田区丸の内1丁目に、(株)みずほフィナンシャルグループを設立。同年1月14日、みずほホールディングスは株式交換により親子関係が逆転し、(株)みずほフィナンシャルグループの完全子会社となった。2006年7月4日、みずほフィナンシャルグループとして、すべての公的資金2兆9490億円を完済した。
2013年7月1日、みずほコーポレート銀行を存続会社として、みずほ銀行を合併し、商号変更して、再度、みずほ銀行とした。本店は、2014年5月6日までの間、千代田区丸の内1-3-3の旧みずほコーポレート銀行本店を使用したが、5月7日に大手町1-5-5の大手町タワーに新築移転した。金融機関コードは0001を使用する。
<参考 海外支店>
<参考>みずほフィナンシャルグループ(MHFG)
第一勧業銀行(消滅)
旧第一銀行は、第二次世界大戦中に三井銀行と合併して帝国銀行となったものの、企業風土の違いから再分裂した。そのような経緯から、1969年に財閥系の三菱銀行との合併を発表するも、白紙撤回に至った。
1971年10月1日、東京圏中心の店舗で重化学工業に強い第一銀行と、地方に分散した店舗網で流通・小売・運輸業に強い日本勧業銀行が合併し、日本一の総資産の銀行が誕生した。当初の本店は丸の内の旧第一銀行の本店に置いたが、1981年に内幸町に移転。本店前の時計台にハートのデザインを用い、「ハートの銀行」のキャッチフレーズで封筒にもハートをあしらった。
1998年3月、旧安定化法により990億円の公的資金の注入を受け、翌1999年3月、早期健全化法により9,000億円の公的資金の注入を受けた。
第一銀行(消滅)
旧第一銀行は、第二次世界大戦中に帝国銀行となった時期を挟み、第一期と第二期に分かれる。
1896年9月25日、国立銀行条例による日本初の商業銀行である㈱第一国立銀行の営業を満了し、翌26日、㈱第一銀行と改称した。1912年9月19日、二十銀行を合併。1916年12月19日、京都商工銀行を合併。1927年4月30日、東海銀行を合併。1931年8月24日、古河銀行を分割買収。1938年2月13日、渡辺銀行を買収。1941年8月16日、麻布銀行、鉄業銀行を買収と業容を拡大し、1943年4月1日、㈱三井銀行と合併し、㈱帝国銀行を設立し、第一期を終了した。
1948年10月1日、㈱帝国銀行より営業譲渡を受け、㈱第一銀行として再度開業し、第二期が始まった。1964年8月1日、朝日銀行を合併、1969年1月、三菱銀行と合併を発表するも白紙撤回となった。1971年10月1日、日本勧業銀行と合併し、第一勧業銀行が発足した。
日本勧業銀行(消滅)
1896年4月、農工業の改良のための長期融資を目的に日本勧業銀行法が公布され、1897年7月12日、政府を中心に設立され、同年8月2日、開業した。東京に本店を置き、支店は大阪のみに限られ、北海道を除く各府県には事実上の子会社である農工銀行が設置され、勧銀への取り次ぎ、または勧銀と同等の業務を行った。
なお、特に重化学工業など基幹産業向けには、日本興業銀行が設置され、勧銀との棲み分けが行われ、北海道には北海道拓殖銀行が設けられた。
長期融資が基本であるため、預金が原資とは成らず、代わりに金融債の発行が認められ、かつ抽選で割増金が付く債券の発行が唯一認められた。農業に関する融資は、個々の農家に対してではなく、事業や組合、担保能力のある地主に行われたため、全く融資が進まず、1911年の日本勧業銀行法改正で商業に対する融資も解禁された。市街地の不動産金融に進出する一方、業務の重複と機能低下を理由に1921年の法改正以後、同年9月1日、山梨及び佐賀農工銀行の合併を皮切りに、1944年9月18日まで各府県の農工銀行を悉く合併し店舗網を拡大した。後のみずほ銀行が全国の県庁所在地に必ず支店があるのは、このためである。
1923年、当時日本領であった台湾の台北州に台北支店が開設され、その後も五州の州庁所在地である高雄、台中、台南、新竹に支店を次々と開設した。割増金付き金融債の発行実績が認められ、第2次世界大戦中の割増金付き戦時債券の幹事銀行となり、やがてこの債券は射幸性が高くなり、終戦直前には勝札と呼ばれる富くじとなり、これが後の宝くじに繋がった。戦後は福徳定期預金(割増金付きの定期預金)の幹事銀行にもなった。
戦後の1950年4月、長短分離政策に伴い勧銀法が廃止され、同年5月10日、特殊銀行から民間の普通銀行に転換した。また、1952年11月、金融債の発行を打ち切って都市銀行の一角となった。以降はシンボルをバラの花、コーポレートカラーをローズレッドと定め、オリジナルキャラクター「のばらちゃん」を採用して大衆化に努めた。法人部門では、融資系列で財閥色の薄いフコク生命や日産火災、日立製作所を交えて勧銀十五社会を結成した。また、戦時債券の名残で、戦後「宝くじ」の業務を受託していた。
他の都市銀行とは異なり、都道府県庁所在地名の支店は都市銀行の出店規制による廃止の対象にならなかった。むしろ、他の都市銀行の地方支店の廃止の際には受け皿となっているケースがあった。勧銀末期における地方での出店は、上記経緯から店舗数が多かった反面、在京行としては首都圏での出店は手薄であり、全体の4割弱と当時の関西系上位行とほぼ同等の店舗数に留まっていた。
初代勧銀本店は、当時の東京市麹町区内幸町(後の千代田区内幸町1-1-5)にあった。1926年、建替えとともに、建物は京成電気軌道(後の京成電鉄)に売却され、谷津遊園楽天府として移築し阪東妻三郎プロダクションが使用した。その後、千葉市役所庁舎となった後、千葉トヨペット本社となり登録有形文化財である。また、内幸町の本店も、第一勧銀発足後の10年間を除き、引き継がれ2度の建替えを経て、現在はみずほ銀行内幸町本部ビルとなっている。
1971年10月1日、大戦後初の都市銀行の合併として、第一銀行を存続銀行として合併し、第一勧業銀行に商号変更し、総資産として国内1位の銀行が誕生した。本店は、丸の内の旧第一銀行本店を使用した。
農工銀行
1896年4月、農工銀行法が公布され、農工業の改良のための長期融資を目的に、北海道を除く全府県に農工銀行が設立された。また、同時に公布された日本勧業銀行法により日本勧業銀行を設立する目的もあり、勧銀への取り次ぎまたは勧銀と同等の業務を行い、事実上の勧銀の子会社的な存在であった。
農工銀行の貸付は、長期年賦で元利返済ができるなど、農工業者に有利な面があった。一方で担保となる不動産査定が厳しく、貸付額も少額で、融資までに時間を要するなどの問題点もあった。1911年、農工銀行法が改正され、これまで農工業資金の貸付に限定されていたのが、商業に対する融資が認められ、市街地を含む不動産を担保にすることで、融資先が広がった。
1921年に日本勧業銀行及び農工銀行の合併に関する法律が制定され、勧銀と農工銀行の合併が促された。
滋賀縣農工銀行(消滅)
1898年1月28日、農工銀行法による特殊銀行として滋賀に設立した。
1938年3月28日、日本勧業銀行に合併した。
富士銀行(消滅)
安田銀行は、第二次世界大戦後の財閥解体令を待たず、1948年10月1日、日本一高い富士山にちなんで富士銀行と改称した。安田銀行時代からの強みであった政府や自治体の指定金融機関としての公金分野に加え、富士の古語読みである芙蓉グループを形成し、企業系列の中核となった。その後は順調に業績を伸ばしたが、1970年10月には、第一勧業銀行が発足し預金量日本一の座を奪われ、都銀としての地位は徐々に低下していった。
1970年代後半には、関東圏の富士に対して、関西圏の三和銀行との合併が合意寸前にまで纏まったが、寡占化を嫌う大蔵省の認可が下りなかった。1980年代には、住友銀行が積極的な貸出に転じ、後にバブルと言われる貸出競争に突入したが、バブル崩壊とともに多額の不良債権を抱えることになった。1990年のバブル崩壊後の経営は悪化し、1995年には日本興業銀行との合併も破談となった。1997年11月の山一證券の自主廃業によって、市場からは、これを支援する余力がないとみなされた。1998年から2000年にかけては、50店舗の統廃合、1,700名のリストラを敢行し、1998年3月には旧安定化法により1,000億円、1999年3月の金融早期健全化法による公的資金の注入は都銀最大の1兆円に達した。2000年9月29日、富士銀行、第一勧業銀行及び日本興業銀行が株式移転によりみずほホールディングスを設立し、3行はその完全子会社となった。2002年4月1日、富士銀行を存続銀行として日本興業銀行と合併し、併せて第一勧業銀行よりコーポレートバンキング業務を分割承継して、みずほコーポレート銀行と商号変更した。
<参考>
富士銀クレジットは、富士銀行で住宅ローンの借入を行った場合の、保証会社であり抵当権を設定していた。2002年4月1日、商号変更してみずほ信用保証になった。
安田銀行(消滅)
20歳で丁稚奉公に出た安田善次郎は、24歳の1864年に江戸日本橋乗物町に乾物屋兼両替商の安田屋を開業した。1866年に日本橋小舟町に移り、両替専業の安田商店に改称、幕府の御用両替を軸に巨利を得ていった。明治になると、当時は信用のなかった公債や額面割れの明治政府発行の太政官札(不換紙幣)に対する正金貸付業務を積極的に行い、大量の太政官札を取り扱うこととなった。1869年(明治2年)に、正金金札等価通用布告がなされたことにより、額面引き換えとなり極めて巨額の利益を得た。この利益をもとに1876年に第三国立銀行を設立。さらに、1880年1月1日に本体の安田商店を合本安田銀行に改組した。安田銀行は、諸官庁の両替及び金銀取り扱いの御用達となり、無利子で官金を引き受け運用し業務を拡大し、合資会社、合名会社を経て株式会社となった。安田銀行は公共投資に資金を提供し、政府や自治体からの信頼を厚くし、その後の富士銀行の指定金融機関としての地位を築いていくこととなった。
第一次世界大戦や関東大震災を経て、続く不況によって社会が不安定となり、資金力や信用力が弱い中小銀行は経営難に陥った。しかし、安田銀行はこれを援助し、時には吸収・合併を行い、預金者の救済にあたった。こうして親密となった安田系11行(第三、明治商業、根室、神奈川、信濃、京都、百三十、日本商業、二十二、肥後)が1923年11月1日に保善銀行を経て合併した。その後、浜松商業銀行、毛利銀行、京都大内銀行、丹和銀行、日本昼夜銀行、日本信託銀行の銀行業務、昭和銀行、第三銀行を合併して業容を拡大した。1948年10月1日、第二次世界大戦後の財閥解体令を待たず、富士銀行に改称した。
信濃銀行(消滅)
1876年6月1日長野に彰真社として開業。1884年6月から1887年4月の休業を経て、1889年5月15日、信濃銀行に改組・改称した。1890年12月に長野貯金銀行を合併し、安田系11行(第三、明治商業、根室、神奈川、信濃、京都、百三十、日本商業、二十二、肥後)が1923年11月1日に保善銀行を経て合併し、安田銀行となった。
(1927年の昭和恐慌を乗り切るために長野県下有数の大銀行として創業し、設立から、わずか2年半で預金の支払猶予を発表し、経営破綻するに至った信濃銀行とは異なる。)
近江銀行(消滅)
1894年3月27日、資本金50万円の株式会社として、伊藤忠兵衛以時らによって、大阪市に設立。綿業者の機関銀行であり景気変動の影響を受けやすい体質であった。日清戦争後の恐慌に際しては、経営困難のため日本銀行より池田経三郎を支配人として迎えた。やがて、好況に向かうと、1905~6年に長浜銀行、湖東銀行、日野銀行、大津銀行の4行を買収し、1918年には、東京銀行をも合併し、預金量では第34銀行に次いで大阪市内No.2の大銀行になった。
しかし、1920年第2次大戦ブームの反動で恐慌が起こると綿業も経営難となり、また、関東大震災で3店舗を失い、取引先にも大きな被害が生じた。このため日本銀行は、近江銀行に対し、重役による私財提供を含む整理スキームを示し、酒井国庫局長を頭取に就任させた。これによって、あたかも更生したかに見えたが、大戦中の取引先拡大からくる固定貸が十分に整理できず、綿業界の不振が続く中、いわゆる昭和金融恐慌が始まった。
1927年3月15日の東京渡辺銀行・あかぢ貯蓄銀行の休業を発端とし、預金の流出は止まらず、日本銀行は近江銀行に対し5300万円にのぼる緊急融資を試みたが奏効せず、4月18日の台湾銀行・近江銀行の休業に始まる第二波となった。預金取り付けは五大銀行に匹敵する規模を持つ4月21日の十五銀行の第三波に及んだ。5月8日、受け皿として新設された昭和銀行へ合併整理された。
昭和銀行は1944年8月1日に安田銀行に吸収合併され、1948年10月1日に富士銀行に改称された。
(参考文献:富山大学経済学部富大経済論集 56(2) 93-128 2011.11
重役による私財提供の論理-昭和金融恐慌を中心に-)
みずほコーポレート銀行(消滅)
2000年9月29日、富士銀行、第一勧業銀行および日本興業銀行が株式移転により株式会社みずほホールディングスを設立し、3行はその完全子会社となった。2002年4月1日、富士銀行を存続銀行として日本興業銀行と合併し、併せて第一勧業銀行よりコーポレートバンキング業務を承継し、みずほコーポレート銀行と商号変更した。
2013年7月1日まで、みずほフィナンシャルグループ傘下で、国内の18本支店(営業部)及び振込専用24支店を有し、大企業、多国籍企業、海外業務(39支店)や金融機関を担当していた。同日、みずほ銀行を吸収合併し、同時に、みずほ銀行に商号変更して統合、名称は消滅した。統合前決算での資産規模は、みずほ銀行77兆6千億円に対し、83兆5千億円と上回っていた。
日本興業銀行(消滅)
1902年4月11日、日本興業銀行法に基づき、当時の国家予算の一割以上に相当する資本金1,000万円で営業を開始した。近代工業の勃興期に産業界の旺盛な資金需要に応え、長期資金の融資、外資導入、証券市場の育成のための専門金融機関としての役割を担った。
興銀は、出自より重工業向けの金融機関であり、中島飛行機(富士重工業)をはじめとする軍需産業への融資が大半を占めていた。1945年、第二次世界大戦の敗戦により、GHQから戦争への協力者と見なされた。1950年4月1日、日本興業銀行法が廃止され、銀行法に基づく普通銀行へ転換。この際に、日本勧業銀行との合併が持ち上がったが、長期金融を志向した興銀と、短期金融を志向した勧銀とで方向性が合わず、立ち消えになった。1952年12月1日、長期信用銀行法に基づく長期信用銀行へ転換。1974年2月に千代田区丸の内1丁目に本店を移転、後の、みずほコーポレート銀行本店としても使用した。
キャラクターとしてキューピー人形を使用し、ワリコー、リッキーなどの表示とともに封筒デザインにも採用された。
1998年3月、旧安定化法により1,000億円の公的資金の注入を受け、翌1999年3月にも、早期健全化法により6,000億円の公的資金の注入を受けた。
2000年9月29日、富士銀行、第一勧業銀行と共に金融持株会社みずほホールディングスを設立し、同社の完全子会社となった。2002年4月1日、カスタマー・コンシューマー銀行業務をみずほ統合準備銀行に吸収分割譲渡した上で第一勧業銀行に吸収合併され、みずほ銀行へ商号変更。興銀本体は富士銀行に吸収合併され、みずほコーポレート銀行へ商号変更した。ただし、みずほコーポレート銀行は、本店所在地・業務内容・勘定系システム等、外見上は興銀とほとんど変わらず、事実上興銀から個人向け業務と金融債業務をみずほ銀行に移し、富士銀行・第一勧業銀行のホールセール部門を移管し、みずほコーポレート銀行となった。